無愛想は嫌われる。
だが考えてみると無愛想というのは「何もしていない」だけなのだ。
別に悪口を言ったり、暴力を振るっているわけではない。
それでも、やはり無愛想は嫌われてしまう。
なぜ無愛想は嫌われるのだろうか?
それは敵意があるのか無いのか分からないからだ。
敵意が無いことを表明するには「愛想よく」するしか無く、それ以外は全て相手に不安や不快感を与えることになる。
社会では愛想よく過ごせば大体上手くいく。
しかし問題なのは、
「コミュニケーションにはエネルギーが必要」ということだ。
俺は比較的、人と話すことで疲れる方だと思う。
昔こんな事があった。
俺は会社で提出資料の記入をしていた。
今日の日付が分からず、スマホで確認をしていたところ、
横に居た先輩に、
「今日何日でしたっけ?って聞けばいいのに。」
と言われた。
俺はこの会話をしてハッとした。
俺は人と話すにはエネルギーが必要で、自力で解決できるものは自力で何とかするのが当たり前だと思っていた。
しかし、他人とのコミュニケーションで消費するエネルギーは人によって違うということに気がついたのだ。
先輩は人と話しても疲れない人間なのだろう。
俺は頑張れば愛想よくすることもできるが、すぐに疲れてしまう。
しかし、人と話しても疲れない人は、より簡単に愛想良く過ごすことができ、社会でも活躍するのだろう。
俺は、人と話すためにある程度のエネルギーを使ってスイッチを切り替えなければならない。
社会に出ているときは、常にある程度の興奮状態に身を置いていると思う。
だから気が休まるのは、誰からも話しかけられない自室にいる時だけだ。
昔、自室に女性を招き入れた時があるが、自室であるにも関わらず人と話さなければならない状況により、エネルギーが完全に枯渇し、とにかく死にたい気分になった。
世の中には、帰った時に迎えてくれる人がいると嬉しいという価値観があるが、俺は全く逆で、家に帰って誰かが居たら絶望すると思う。
家に人がいるというのは、息継ぎができず溺れている状況と同じなのだ。
そんな俺でも、完全に一人で居たいとは思わず、たまには人と話すことも大事だと思っている。
人と話すことで自分の意見を客観視することができるし、新しい情報や興奮が得られることもある。
人それぞれ、社会との接し方を探るのが大事だと思う。
人と話すのが好きな人は、会社員をやって、休日も誰かと遊べば良い。
でも厄介なのが、人と話すのが苦手で、ギリギリ会社員をやって休日は疲れ果てて何もできないというパターンだ。
人と話すのが苦手な人には、その人の得意なフィールドがあるのだと思う。
現代は個人の技能が重要な気がする。
100人集めても、100倍良いプログラムが完成するわけではない。
100万人の素人を集めても、ワンピースを書くことはできない。
寂しがり屋はチームを組めば良い。
一人が好きなら、一人で強くなれば良い。
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