ハンバーグ弁当依存

ドンキホーテで298円のハンバーグ弁当を買った。

いつもは卵かけご飯ぐらいしか食べないのだが、その日は事務処理のために役所へ行った自分へのご褒美が欲しかったのだ。

久々に食ったハンバーグ弁当は上手かった。

もはや肉の感触のしない、典型的なハンバーグでとても満足した。

 

翌日異変が起きた。

朝起きると、またハンバーグ弁当が食べたくなっていたのだ。

そして、いつも食べている卵かけご飯を食べたいという気持ちが、一気に無くなっていた。

あれだけ連日満足しながら食べていた卵かけご飯が、何かしょうもない物のように感じられたのだ。

結局その日は適当にやり過ごし、次の日にはハンバーグ弁当を求める心も無くなり、また卵かけご飯を楽しめる体に戻っていた。

 

結局の所、大量の旨味成分にやられていたのだと思う。

旨味成分は分解されるとドーパミンに変わるらしい。

ある意味、直接的な薬物だ。

たった一食で私の食生活を塗り替えるレベルの力があったのだ。

 

私は少食だ。

太っている知人が、ファミレスで大量に食べているのを見て、引いていたことがある。

でも、私があの状態になるのも紙一重なのかも知れない。

もし私があの時、ハンバーグ弁当を連日食べるようになっていたらどうなっていたのだろうか。

その生活を一ヶ月も続ければ、習慣化されたハンバーグは暴走の一途を辿ったであろう。

一体人は何のために食べるのであろうか。

それは決して生きるためではないと思う。

 

私はどうしても食事が嫌いだ。

時間もかかるし、体調にも変化があるし、歯も汚くなるし、良いことが無い。

しかし、そういう考えは共感されない。

会食という文化があるように、食事と社会性はほぼ一致して、食事を楽しめないことは社会性の無さと同義になりかけている。

立場の上の人に食事をおごってもらっても、私は内心苦しんでいる。

ある意味少食とは、トークが下手なのと同じぐらいのデメリットが有るように思える。

コミュニケーションの中には、ほとんど食事が組み込まれている。

だから私は、社交的になればなるほど苦しくなるのだ。

私は、椅子のある場所で烏龍茶でも飲みながら語りたいのだ。

 

人は快楽を共有し、共感して楽しむ生き物なのだ。

快楽は多いければ多いほど良いのだろう。

しかし私はハンバーグに屈したいとは思えない。

ハンバーグに打ち克つ心の強さこそが、私の弱さなのかも知れない。

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