88歳の元院長が大きな死亡事故を起こしたにも関わらず逮捕されない、という事件が話題になっている。
報道のされ方や警察対応に忖度が見受けられるので「上級国民」だなんだと揶揄されている。
しかし、俺的にそこはどうでも良くて、
「上級国民なのに、何でタクシーに乗ったり運転手を雇わないんだろうか?」という所が気になった。
88歳だし、金もあるのだから自分で無理して運転などしなくても良いはずだ。
俺はそういう所に、彼のリスク管理の弱さを感じた。
投資の世界には「リスクを限定的にし」「リターンを伸ばす」という考え方がある。
そういう意味で言うと、88歳で車を運転するという行動には「無限大のリスク」と「僅かなリターン」しかない。
人生は長い。
その上で、日常的に破滅的リスクを抱えたサイコロを振れば、確率が低くてもいつかは当たってしまう。
彼はメディアや警察から忖度されるほどの力を持っているわけだが、果たして人を2人殺してもまだ自分の人生を誇れるだろうか?
俺だったらそうは思わない。
俺はリスクについて敏感なのかもしれない。
俺は、いとこが大企業に勤め結婚しマイホームを建てた末に自殺した事により、
広い目線でリスクについて考えるようになった。
いとこの件から考えるに、「会社員 結婚 マイホーム」には「死という破滅的リスク」があるがそれに見合ったリターンはあるのだろうか。
死を引き換えにするには、あまりにもリターンが限定的である。
投資論的に考えれば「リスクは無限」「リターンは限定」という最悪な判断ということになる。
「会社員 結婚 マイホーム」は、世間的には褒められる行動だという所が中々悪質なところだ。
いとこもそういう矛盾に悩んでいたのではないかと思う。
俺はいとこの死を見てなお、会社を辞めるのに9年ほどかかってしまった。
判断の遅さは俺は愚かさの証明だと思ってる。
しかし、それだけ世間や一般論の呪縛は大きいということでもあるのだ。
確かに何かを得るためにはリスクは負わなければならない。
しかし不必要にリスクを負う必要もない。
社会は、覚悟とか責任とか常識とか言葉を並べて、他人に無限のリスクを負わせようとする。
そういうものは「悪いリスク」であり、徹底的に排除すべきだ。
俺は今後、同じ過ちを犯さない。
俺は「リスクは限定的」「リターンは無限」という選択しかしないつもりだ。
しかし、そう簡単に考えが切り替えられるわけではない。
そのため、思考の工夫として「一億円理論」を掲げている。
それはある程度短期的に一億円得られる努力しかしないというものだ。
それによりリターンを伸ばすという考えの訓練になる。
しかし、この考え方を数ヶ月してみたがこれも少し違うなと思った。
それは、自分の直感を反映できないからだ。
論理的に考えた一億円を稼ぐ方法には、自分の適性が反映されず、違和感を抱えながら行動を継続する必要が出てくる。
それにより、行動の実行や継続が不可能という事になってしまう。
今の所正解だと思っているのは、「不真面目にやる」という考えだ。
実は今まで俺を蝕んでいた「リスクは無限」「リターンは限定」という行動は、真面目な行動と言い換えられる。
俺は、目的を達成するためには真面目な努力が必要だと思っていた。
しかしそれで何か成果が得られることはなかった。
最近は、「不真面目に行動する」事が最も正解なのではないかと思っている。
「体感」というのは最も信頼すべきセンサーだと思っている。
「やりたくない…」という体感はなにか意味があって発生していると思ったほうがいい。
その体感を真面目さで封殺しても、その先に成果はない。
その先に成果が無いからこそ「やりたくない」気分になっているのだ。
体感を信じ、一見不真面目とも言える行動をするというのは、最大の自己肯定である。
自分の感じる先に、必ず正解があるという確信を持っているという事だからだ。
自分を信じなければ、自分も答えてくれないと思う。
俺は今後適当にやっていくことにする。
そしてそれが最短で1億稼ぐ方法だと信じている。
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