俺は無職になり、自由に生きるにも訓練が必要だと知った。
会社員時代には、「無職=自由」だと思っていたが、そう簡単なものではなかった。
確かに、時間的自由はある。
しかし、「選択に自由」が無かった。
人生において、自由な選択をする機会はあまりない。
学校や会社による時間的な制約は分かりやすい例だが、最も重大なのは「価値観の制約」だ。
例えば、何か趣味を見つけようにも、世間体や周りの反応の良さを気にすることはよくあると思う。
俺は小学生の頃、ナメクジを捕まえて遊んでいたことがあったが、母親のあまりの反応の悪さに圧倒されて辞め、それ以降はむしろナメクジへ嫌悪感が発生したことがある。
純粋な好奇心は、周囲の反応によって修正されてしまうものだと思う。
世間体を気にする真面目な人間ほど、価値観の修正を素直に受け入れ、年を取るほどに選択肢が少なくなってしまう。
俺は会社を辞めた後、色々なことをやろうと思っていたがほぼ継続できなかった。
何故なら、世間的に評価されそうなことから行動をチョイスし、自分の感覚を無視していたからだ。
むしろ、自分の感覚を無視する事こそが努力だと、錯覚していたかもしれない。
自分の感覚を無視することは、自分を信頼しないということだ。
自分を軽視し、他人の価値観で生きる人生に継続性は無い。
ツイッターで「ツイ廃になりすぎなので、抑えていかないと…」というような書き込みを見ることがちらほらある。
俺は、ああいう考えは良くないと思う。
自分の感覚が、ツイッターに重要な情報があると認識しているからこそ、ツイッターに熱中しているのだ。
中途半端に中断するから、いつまでも満足することができない。
自分の感覚を信じ、ツイッターが気になるのなら気が済むまでやる。
自分の深層心理が情報収集を終えたと認識すれば自然と飽きるものなのだ。
俺は最近N国党にめちゃくちゃハマっていた。
N国党立花氏の動画をひたすら見ていたが、2週間ぐらいで飽きて見なくなった。
しかしその結果、立花氏に大きな影響を受けて素直な気持ちで自分もYou Tubeを始めようという気持ちになったのだ。
もしこれで、「最近You Tube見過ぎだ…、この時間をもっと有意義なことに使わないと…」などと考えていたら、このような心理的変化に至ることはなかっただろう。
その他にも、いろいろな事にハマり、そして飽きるという事を繰り返している。
しかし、それらによって得られた知識が後々役に立つ事が多くある。
努力の方向性というのは、自分の感覚により正しく導かれると分かってきた。
俺は「気になることをやる、飽きたらすぐ辞める」事が最も正しいあり方だと思った。
特に、「飽きたらすぐ辞める」の部分が気が付きにくい重要なポイントだと思う。
自分の感覚に従う事が、実は最も効率化された正解の道なのだ。
そう思うようになり、何となく自分自身と和解したような気分になった。
行動する事だけが自由ではない。
「何もしない、飽きたら辞める」という自由を受け入れてこそ本当の自由なのだ。
そういうことや。
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